前編からのつづき
2007年、MUCCがGUNS N’ ROSESのオープニングアクトを務めたとき、演奏中にも関わらず罵声が飛び交った。「ヘタクソー!」「帰れー!!」──そのあまりにも酷い光景を見かねて、次第に「頑張れー!!」という声援も送られた。そんな周回遅れのマラソンランナー状態のステージであったが、さらに「アクセル・ローズ会場未到着」という最悪の事態が起こり、一度終わって退場したにも関わらず時間調整のため再びステージに戻って演奏する、という散々なオープニングアクトだった。プライドを木っ端微塵にされたあのステージで彼らは何を思ったのだろうか。
そんな姿を見ていたからこそ、前回取り上げ、本稿を書く衝動に駆られた逹瑯の「いつからヴィジュアル系はカッコ悪いとされるようになったんだろう」という発言にとてつもないほどの重みを感じたのだ。今のMUCCは強い。オーディエンスの士気を煽動するのが本当にうまい。ライブを盛り上げる術を熟知しており、どんなアウェイの場でも一気に引き摺り込んで行く。「強くなった」というべきだろう。その過程は、ヴィジュアル系が“カッコ悪い”モノから“世界が羨む”モノへと変化していく、そのものを表していると思えてならないのだ。
DIR EN GREYやthe GazettEがはじめて<LOUD PARK>に出演したとき、洋楽ファンからバッシングを浴びたこともあった。もっと前、そうした“ヴィジュアル系差別”で思い出されるのは、PIERROTだろう。
フェスが生んだヴィジュアル系差別
「洋楽ファンのみなさん初めまして。僕らがあなたたちの大嫌いな日本のヴィジュアル系バンドです──」
1999年、富士急コニファーフォレストで開催されたマリリン・マンソン主宰のロックフェス<BEAUTIFUL MONSTERS TOUR 1999>でヴォーカル、キリトが言い放ったこの言葉からはじまったMCは、<SUMMER SONIC>の前哨戦であった本フェスにおいて、「PIERROTの出演を快く思わない」と発した音楽評論家に対する皮肉でもあった。しかしながら、それは当時のヴィジュアル系バンドの立ち位置を表すものだった。
1997年、日本における本格的なロックフェスティバルの先駆けである<FUJI ROCK FESTIVAL>が初開催された。フェス文化の幕開けでもあるわけだが、大きく意味を持ったのは、海外アーティストと日本人アーティストが同列に並んだことだった。長きに渡り洋楽優位とされてきた我が国のロックシーンの中で、このことはシーンにとってもリスナーにとっても大きな変革をもたらすことになった。反面で、表立って公言されている訳ではないが「ヴィジュアル系はフェスに出られない」という暗黙の諒解ができた。フェスによって緩和されている節はあるものの、今なお根強く残っているところもある。その理由は明確ではないものの、「ヴィジュアル系は音楽的に劣っている」というような偏見があったこともあながち間違ってはいないはずだ。現に土屋昌巳、ミック・カーン(JAPAN)、DJ KRUSHらとともに当時ドラムンベースなどの前衛的な音楽を探求していたSUGIZOは、この97年のフジロックへ出演予定だった(出演日であった2日目は台風により開催中止)。
ヴィジュアル系治外法権バンド、BUCK-TICK
唯一、そうしたヴィジュアル系差別を受けなかったバンドが、BUCK-TICKである。80〜90年代からの黎明期出身でありながら、洋楽化の先陣を切っていった。その作品ごとに様変わりしていく貪欲な音楽姿勢、前衛さは“ジャンル分け不要”とまで言われた。だが、彼らはどんなにサウンドがマニアックになろうとも、その本質である“ポップでキャッチーな歌モノロック”というデビュー当時からのスタンスは一切変えていないし、妖艶さを醸し出すメイクもやめたことはない。尤も、その音楽性の評価であるのか、はたまたリミックスアルバム『シェイプレス』(1994年)におけるAphex Twin、Autechreといった当時気鋭だった海外アーティスト参加、という分かりやすい免罪符があったからなのか、本人たちはいざ知らず、評論家やライターを含めた周りが、間接的に「BUCK-TICKはヴィジュアル系ではない」という風潮を作り上げた気がしている。とある雑誌で、当時BECKのベーシストとして注目を浴び始めていたジャスティン・メルダル=ジョンセンが『SIX/NINE』(1995年)を絶賛している、という記事を見かけたのだが、それはさすがに「お前が無理やり聴かせて既成事実を作っただけだろ」と思ったものだ。
だが、そうした甲斐もあってか、彼らは先述のPIERROTと同じ<BEAUTIFUL MONSTERS TOUR>に出演し、hideの追悼でもある「DOUBT ’99」を演奏して感動と賛辞を呼び起こした。加えて、マリリン・マンソンにも気に入られ、2003年のジャパンツアーのサポートにも抜擢された。冷静に考えなくともPIERROTとの差がすごい。そして、2003年には<SUMMER SONIC>へ出演しているのだが、客入りこそ大盛況というわけではなかったものの、バッシングどころか、洋楽ファンからも歓迎された感すらある。ゆえに「BUCK-TICKはヴィジュアル系ではない」ということが当時のファンの認識だった。
しかしながら、アルバム『十三階は月光』リリース(2005年)で情勢は大きく変わる。古き良き、あの頃の“黒服系”を思い出させるゴシックな作風を、ファンは懐かしむと同時に、すっかり様変わりしたヴィジュアル系シーン、“ネオ・ヴィジュアル系”に対して「これこそがホンモノである」と、BUCK-TICKを「ヴィジュアル系の始祖」と持ち上げる気風が高まっていった。なんともファン心理とは不思議なものである。
ネオ・ヴィジュアル系のダークサイドとサニーサイド
ゼロ年代のヴィジュアル系といえば、2004年頃に大きく取り上げられた“ネオ・ヴィジュアル系”だ。「ルックスありき」「エンタメ性」と語られるこの新しいムーヴメントは、音楽表現の手段としてメイクをすることに行き着いた90年代のヴィジュアル系に対し、はじめから「ヴィジュアル系であること」を前提として音楽をはじめる世代へと移り変わったことを表すものであるようにも思う。ちなみに、この“ネオ”とは、ネオアコ(ネオ・アコースティック)、ネオ・サイケ、ネオ・モッズ、ネオGS(ネオ・グループサウンズ)など、旧来の音楽スタイルと区別する意味で、評論家やレコード会社が名付けた日本独特の呼び名である。
ネオ・ヴィジュアル系の幕開けは2003年にある。4月にメリー(現・MERRY)が清春主宰レーベル〈FULL FACE〉から『現代ストイック』を、7月に蜉蝣が1stアルバム『蜉蝣』をリリースし、同月、ムック(現・MUCC)がメジャーデビューした。ゼロ年代ヴィジュアル系を語る上で外せない“御三家”の足並みが揃ったわけだ。他にも、“オサレ系”と呼ばれたバロック(現・BAROQUE)がメジャーデビュー(7月)し、日本武道館公演(8月)を行った。ナイトメアがメジャーデビュー(8月)を果たし、シドが1stシングル「吉開学17歳(無職)」をリリース(8月)する、というとんでもない年だった。そして翌2004年には、Kagrra,がメジャーデビュー、the GazettEが〈大日本異端芸者 ガゼット〉として1stアルバムをリリースしている。
“エログロ”、“ジャパネスク”といった独特の陰鬱さ、アングラ感を持ったバンドが多いのがこの時期の特徴でもある。90年代に一世を風靡したヴィジュアル系は既に過去のモノとなり、好きな人だけが聴くサブカルチャーとなっていたことが、その世界観や音楽からも伺える。同時に、Coccoや椎名林檎といった“メンヘラ”気質の女性アーティストたちの影響もあるだろう。“死”をダイレクトに綴ったCoccoと、昭和テイストと日本文学を用いた椎名林檎の存在は、当時のヴィジュアル系女性ファンの心に響き、自ずとシーン自体に影響を及ぼしたことは間違いない。なにより、Coccoを広めたのは、hideだったのだから。
こうしたバンドはある意味、90年代黒服系譜ともいえる“ダークサイド”のバンドであるが、対照的に“サニーサイド”のバンドも出て来た。「純白のタキシード」と「深紅の薔薇」をトレードマークとしていた紫苑が2003年にメジャーデビューした。キザなホスト風の出で立ちで、CDではなくビデオ作品でのデビュー、沢田研二のカバーなど、コミカルな面でのヴィジュアル系を体現していた。いわば方向性は違えどゴールデンボンバー的なアプローチをやっていたバンドだ。アンティック-珈琲店-や彩冷えるといった、アイドル性を加味したバンドも出てくる。
ヴィジュアル系が世界的に広まった一因にアニメ主題歌がある。今でこそ、アニメの評価は高いが、当時はオタク文化として見られることが強く、アニメのタイアップをロックバンドがやることは「カッコいいこととは言い難い」風潮もあり、ドラマやCMに比べて、タイアップを狙いやすかったのだ。だからレコード会社は売り出したいバンドをこぞって、アニメ主題歌に推したのだ。
ヴィジュアル系とYOSHIKI、そしてエクスタシー
アニメ人気などの追い風もあり、ヴィジュアル系が世界に羽ばたく気風が一気に高まったのは、2007年5月にアメリカ・ロサンゼルスにて行われた<J-Rock Revolution Festival>である。アリス九號.、ヴィドール、DuelJewel、Kagrra,、雅-miyavi-、D’espairsRay、メリー、ギルガメッシュ、ムックの9組が参加。旗頭はYOSHIKIである。しかし、当時、X JAPANの再結成はまだ噂の段階に過ぎず、YOSHIKIの国際知名度は低かった。このとき、YOSHIKI、Gackt、SUGIZO、雅-miyavi-による新バンド「S.K.I.N」の始動も発表されたが、海外ではもしかしたらこの4人のなかでYOSHIKIの知名度がいちばん低かったのかもしれない。国内ですら、この頃のYOSHIKIは何しているのかよくわからない状態だったのだから仕方ない。しかし、「こうしたヴィジュアル系バンドをまとめ上げているYOSHIKIとはいったい何者なんだ?」「“Visual-Kei”のルーツはどうやらYOSHIKIのいたX JAPANというバンドらしい」という得体の知れない大物の存在を海外に知らしめることになったのだ。
そして、ヴィジュアル系を語る上で避けては通れないのは事務所、レーベルの話題である。蜉蝣、バロックのフリーウィル(FWD/sun-krad)、ムック、シド、ギルガメッシュのデンジャークルー(マーヴェリックDCグループ)、the GazettE、Kagrra,、雅-miyavi-のPSカンパニー、といったところが広く知られているが、このゼロ年代にエクスタシーレコード系列がヴィジュアル系バンドを手掛けていないことが興味深い。エクスタシーのメジャーレーベルであったアンリミテッド・グループはGLAYの成功以降、SHAKALABBITS、175R、B-DASHといったバンドを発掘、成功に導き、青春パンク〜メロコアという新しいムーヴメントを作っていたのだった。ちょうど、“ヴィジュアル系氷河期”とも呼ばれる2000年頃のことである。そして、TRANSTIC NERVEとアンリミテッドの契約が終了したのが2002年。hideが1996年に立ち上げた<LEMONed>の系譜がここに途絶えた。ネオ・ヴィジュアル系の幕開けともいえる2003年の前年の出来事だった。
2003年が大きな節目である理由はもうひとつある。ヴィジュアル系、J-ROCK史上において、絶対に外すことのできないアルバムがリリースされたのだ。
2003年9月10日、Dir en greyメジャー4枚目となるアルバム『VULGAR』である。
このアルバムの何がすごいのか? その理由は多かれど、後年の影響力としていちばん大きかったのは、ディスクユニオンが“ヘヴィメタルバンド”として扱ったことだと思っている。
<後編へつづく>